キム・ハクスン
김학순

キム・ハクスンは、1924年、日本の植民地支配下にあった時代に朝鮮から中国・吉林へ移住していた家庭に生まれました。父の死後、母は朝鮮に戻り再婚しましたが、新しい家庭になじめなかったハクスンは里親のもとで暮らすことになります。その後、里父に連れられて北京へ渡り、仕事を探すはずでしたが、到着後、日本軍によって連行され、「慰安所」に送られました。そこで彼女は他の少女たちとともに、性的な被害を受けることになります。
約4か月後、慰安所に出入りしていた朝鮮人男性の助けによって逃れることができ、その後その男性と結婚し、一男一女をもうけました。しかし夫は中国各地でアヘンの取引に関わっており、酒に酔った際などには彼女に対して侮辱的な言葉を浴びせることもありました。日本の統治が終わった後、ハクスンは最終的にソウルへ戻りますが、その後まもなく、夫と子どもたちを病気で失います。その後はソウルを転々としながら、日雇いの仕事で生計を立て、厳しい生活を送ることになりました。
約50年の沈黙を経て、1991年8月14日、キム・ハクスンは公の場で初めて証言を行いました。彼女は、戦時中の「慰安所」での経験を公に語った最初の元慰安婦の一人となり、その証言は大きな反響を呼びました。この出来事をきっかけに、他の被害者たちも次々と声を上げるようになり、フィリピン、シンガポール、台湾、中国、韓国、オランダなどから、およそ200人の被害者が公式に名乗り出ました。
こうした国際的な関心の高まりを受け、日本政府は「河野談話」を発表し、「慰安所」の設置への関与や、女性の募集における強制性について初めて公式に認めました。また、彼女の証言の翌年から、日本大使館前で毎週水曜日に抗議活動が行われるようになり、補償と公式な謝罪を求める「水曜デモ」は現在も続いています。
キム・ハクスンは、1991年に東京地方裁判所へ提起された訴訟にも参加し、謝罪と賠償を求めました。また、水曜デモにも継続的に参加し、自らの経験を伝え続けました。病を抱えながらも、最後のインタビューにおいて、日本政府の最高責任者による正式な謝罪を求め続けました。
1997年12月16日、肺の病により亡くなりました。8月14日は「慰安婦の日」として定められており、キム・ハクスンが初めて声を上げたこの日を、数多くの犠牲となった少女たちを記憶する日として位置づけています。



