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慰安婦制度の歴史

本セクションでは、慰安婦制度がどのようにして成立したのか、その背景と実態について考察します。また、慰安所における過酷な状況や、戦後を生きた女性たちの歩みにも焦点を当て、彼女たちが直面してきた長期的な課題について明らかにします。

太平洋戦争以前

慰安婦制度成立の背景

1905年、日露戦争における日本の勝利を受けて、ポーツマス条約が締結されました。この条約は、朝鮮皇帝が無効化を試みたにもかかわらず、強い圧力のもとで結ばれ、日本は韓国および南満州における政治的・経済的な支配権を獲得しました。日本政府はすぐに朝鮮の主権を奪う政策を進め、伊藤博文を統監として派遣しました。伊藤には、行政の統制、法令の施行、公務員の任命など、広範な権限が与えられていました。1909年に伊藤が暗殺された後、1910年の日韓併合条約によって、朝鮮は正式に日本帝国へ併合されました。朝鮮は、1945年8月15日に解放されるまで独立国家としての地位を失いました。


日本の植民地政策は、「大東亜共栄圏」という帝国主義的な理念のもと、朝鮮の人々を「より優れた文明的な日本人」へ同化させようとするものでした。政府は日本人移民の朝鮮への移住を積極的に支援しました。新たに移住した日本人のために神社が建設され、朝鮮の人々にも日本の神々への参拝が奨励されました。その中には、朝鮮征服に関わった兵士や歴代天皇を祀るものも含まれていました。


また、朝鮮の学校では日本語のみの使用が認められ、政府が認可した教科書のみが使用されました。1939年までには、郵便や配給制度の利用制限などを背景に、朝鮮人口のおよそ90%が日本式の名前を名乗るようになっていました。 

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1905年、ポーツマス条約締結時のセオドア・ルーズベルト(中央)とロシア・日本の代表団

1870年に採用された「旭日旗」。のちに日本の帝国主義・軍国主義の象徴となった

植民地下の朝鮮に駐留する日本軍将校たち。1910年の併合後、韓国は「朝鮮(Chosen)」と呼ばれた

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慰安婦制度が作られた背景

日本政府は当初、軍事行動に同行する存在として、日本人の売春婦を利用していました。多くの慰安所では、「唐行きさん(からゆきさん)」と呼ばれる日本人女性が働いていました。「唐行きさん」とは直訳すると「中国へ渡る人々」を意味し、海外で働く日本人売春婦を指す言葉です。
しかし、一部の研究では、この「唐行きさん」の制度自体も、女性たちを欺いたり、追い込んだりすることで売春へ従事させる性的搾取の側面を持っていたと指摘されています。彼女たちは兵士が支払った料金の約50%を報酬として受け取り、その一部を故郷へ送金していました。
その後、日本軍が広範な地域へ拡大していくにつれ、日本政府は、自国の兵士たちが「自分たちの姉妹や妻が売春に従事している」と知ることで士気が低下することを懸念するようになりました。
慰安婦制度成立の大きな契機となったのは、1937年の南京事件(南京大虐殺)でした。日中戦争(1937〜1945年)の最中、日本軍は中国の首都・南京を占領し、その過程で、およそ2万人の女性への性暴力と、20万人以上の民間人虐殺が行われたとされています。この出来事は「南京大虐殺」あるいは「南京レイプ事件」として国際的に大きな非難を受けました。
こうした国際社会からの批判を受け、日本政府は兵士たちの性的欲求をより「管理された形」で処理する方法を模索するようになりました。

慰安婦制度

慰安婦の総数についてはさまざまな推計がありますが、多くの研究者は、吉見義明教授の研究による「5万人から20万人」という推計を引用しています。資料によれば、日本政府は1938年までに、朝鮮や台湾における慰安所制度の「全面的動員」を進めていたことが確認されています。


多くの少女や女性たちは、日本の植民地支配地域から連行されました。その大半は、看護師、飲食店の従業員、事務職員などの仕事を紹介する虚偽の広告によって誘い出され、後に日本軍のための性奴隷として働かされることになります。


また、植民地地域の人々にも一定の関与がありました。貧困に苦しむ家庭が借金返済のために娘を売るケースや、日本軍の協力者となった仲介業者が、女性たちを騙したり連れ去ったりすることもありました。
多くの慰安婦は14歳から19歳ほどの少女たちでした。太平洋各地の軍事基地へ移送された後、彼女たちは生理中や病気であっても関係なく、毎日午前10時頃から深夜まで複数の兵士の相手を強いられました。慰安所を訪れた兵士たちは、自分の望む方法で女性たちに従わせることができました。
慰安婦たちは、暴行、拷問、身体への刻印、性的暴力を受け続け、中には最長で8年間にわたり拘束された人もいました。
ニューヨーク・タイムズ紙でチェ・サンフンが執筆した記事の中で、ユン・スンマンは慰安婦として過ごした夜について証言しています。14歳で日本南部の慰安所へ連行された彼女は、日本兵の相手を強制されました。
「毛深い中年の男が私の腕と脚を押さえつけた」
彼女は抵抗するために兵士の耳に噛みつきましたが、その兵士は報復として彼女の腕を折ったとされています。
終戦前には、インド・ビルマ戦線にいたアメリカ陸軍が、捕虜となった20人の慰安婦と2人の日本人民間人への尋問をもとに報告書を作成しました。この報告書は『日本軍捕虜尋問報告書 第49号(Japanese Prisoner of War Interrogation Report No.49)』として知られています。
この報告書は、慰安婦が自発的な売春婦であったという主張の根拠として否定論者に利用されることがあります。しかし実際には、この報告書には人種差別的・女性蔑視的な表現が含まれているだけでなく、女性たちが曖昧で欺瞞的な勧誘を受けていたことも記されています。
報告書には次のような記述があります。
「この『仕事』の内容は明確には説明されなかったが、病院で負傷兵を見舞ったり、包帯を巻いたり、一般的に兵士たちを喜ばせる仕事だと考えられていた。」

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戦後

1945年9月2日、日本はアメリカ、イギリス、ソ連に対して正式に降伏しました。戦後、推定約20万人とされる慰安婦のうち、故郷へ帰ることができたのは一部に限られていました。帰国後も、多くの元慰安婦は家族や地域社会から孤立しました。特に当時の韓国社会では、儒教的な価値観のもとで、女性には結婚まで純潔を保つことが強く求められていたため、被害者たちは偏見や差別に直面しました。


その結果、自ら命を絶った人や、家族との関係を断たれた人も少なくありませんでした。また、後遺症によって子どもを持つことができなかった人も多く、医療費を賄うために複数の仕事を掛け持ちしながら生活する人もいました。多くの人々が、生涯にわたり身体的・精神的な傷に苦しみ続けました。


1951年には、連合国と日本との間でサンフランシスコ講和条約が締結され、日本と連合国との戦争状態およびアメリカ主導の占領体制が正式に終了しました。この条約を通じて、アメリカには戦後秩序を形成し、日本の植民地支配に対する責任を問う機会がありました。しかし当時は冷戦が激化しており、アメリカを中心とする西側諸国は、日本の戦争責任の追及よりも、日本を反共産主義陣営の同盟国として早期に復興させることを優先しました。その結果、植民地支配や戦時被害に対する十分な補償や救済措置は行われませんでした。


1965年には日韓基本条約が締結され、両国の国交が正常化されました。この際、日本から韓国へ無償3億ドル、有償2億ドルの経済協力が行われました。これは植民地支配全体に関する包括的な枠組みであったため、日本政府はしばしばこの条約を根拠に、関連する問題は解決済みであると主張してきました。しかし、慰安婦問題についての具体的な言及は含まれていませんでした。

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沈黙を破る

キム・ハクスンの歴史的証言

1991年8月14日、キム・ハクスンは、自身の体験を公に語った最初の元慰安婦の一人となりました。彼女の証言をきっかけに、多くの被害者が韓国政府に登録し、声を上げるようになります。当初名乗り出た約240人のうち、現在生存している方は10人未満となっています。


制度の存在を示す公式文書は限られています。これは、戦後、日本政府が関係資料の多くを破棄したためとされています。1991年には、中央大学の吉見義明教授が防衛庁図書館で関連文書を発見し、日本軍が慰安婦制度の設置・運営に直接関与していたことを明らかにしました。


吉見教授の研究成果が『従軍慰安婦』として公表された後、1992年、加藤紘一官房長官は慰安婦制度の存在を公式に認めました。加藤長官は、日本政府が「慰安施設の設置、慰安所の管理および監督に関与していた」と述べています。


さらに1993年8月、河野洋平官房長官は「河野談話」を発表し、慰安所の設置や運営への日本政府の関与を認めるとともに、多くの女性の「名誉と尊厳を傷つけた」ことについて謝罪を表明しました。

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アジア女性基金とその後の日本政府の対応

1994年、村山富市首相は、慰安婦問題を検討するための委員会を設置しました。しかし委員会は、日本政府が負うべき法的補償の問題は、1965年の日韓基本条約によって解決済みであるとの見解を示しました。
その一方で、国際社会からの批判に対応しつつ、自国の法的立場を維持するため、日本政府は1995年に「アジア女性基金(AWF)」を設立しました。
AWFの主な目的は、元慰安婦への謝罪と支援を行うことでした。基金は、日本国民からの民間募金によって運営され、生存している被害者への「償い金」の支給も行われました。


しかし、この基金は韓国や台湾などで強い反発を受けました。台湾では、「民間の寄付ではなく国家による正式な補償であるべきだ」として支援金の受け取りを拒否する声が上がりました。韓国でも、一人当たり200万円の支給額が不十分であるとして批判されました。
最終的に、韓国では11人の元慰安婦が支援金と謝罪の手紙を受け取りましたが、一部では「少ない補償で問題を終わらせた」として社会的な批判を受けました。AWFの事業は、韓国、台湾、フィリピン、オランダなどで実施され、2007年にインドネシアでの活動を最後に終了しました。


同じ時期、日本国内では歴史認識をめぐる議論も続いていました。安倍晋三首相は河野談話に否定的な姿勢を示し、日本の戦争責任に関する記述の見直しを進めました。安倍首相や複数の閣僚、国会議員らは、A級戦犯が合祀されている靖国神社を公式参拝しました。


日本の歴史教科書は、使用前に文部科学省による検定を受けます。沖縄戦における日本軍による「集団自決(強制集団死)」への関与について、「十分な歴史的根拠がない」とする検定意見が出された際には、特に沖縄県民を中心に大規模な抗議活動が行われました。2016年時点では、日本の歴史教科書出版社8社のうち、慰安婦問題に言及していたのは1社のみでした。


2013年には、大阪市長であり日本維新の会共同代表でもあった橋下徹が、「銃弾が雨や風のように飛び交う状況では、兵士を休ませるために慰安婦制度は必要だった。誰でも理解できる」と発言し、国内外で大きな批判を受けました。


2014年には、三浦小市氏が設立した日本の団体「Global Alliance for Historical Truth(GAHT)」が、慰安婦像が設置されたアメリカ・カリフォルニア州グレンデール市を提訴しました。GAHTは、この記念碑が日系アメリカ人に対する憎悪を助長すると主張しました。


しかし2016年8月4日、連邦控訴裁判所はグレンデール市側の主張を認め、慰安婦像は他の歴史的・国際的問題を記念する記念碑と変わらないと判断しました。日本政府も一部の右派団体とともにGAHT側を支持する意見書を提出しましたが、2017年2月27日、アメリカ連邦最高裁判所は上告を退け、訴訟は正式に終了しました。
2015年12月、日本と韓国の両政府は、慰安婦問題について「最終的かつ不可逆的な解決」とする合意に達しました。日本政府は謝罪を表明するとともに、韓国政府が設立する財団に10億円(約830万ドル)を拠出することを約束しました。


しかし、この合意は戦争犯罪の解決として国際的基準を十分に満たしていないとの批判を受けました。また、生存している元慰安婦本人たちが交渉から十分に排除されていたことも問題視されました。
この合意を主導した韓国の朴槿恵大統領は、その後、汚職事件により弾劾・有罪判決を受けています。さらに2016年1月、合意直後に安倍首相は、「この合意は、日本政府が戦争犯罪や性奴隷を認めたことを意味するものではない」と述べ、「20万人の性奴隷が存在したという事実はない」と発言しました。

その後も、この問題をめぐってはさまざまな議論が続いています。歴史認識や教科書記述をめぐる問題、政治家による発言、記念碑設置をめぐる国際的な動きなどが重なり、現在も解決には至っていません。
2015年12月、日本と韓国の政府は「最終的かつ不可逆的な解決」とする合意に達し、日本は謝罪とともに8億円規模の資金拠出を約束しました。しかし、この合意は被害者本人の意見が十分に反映されていないことなどから、国内外で批判を受けました。


また、海外では慰安婦問題に関する記念碑の設置や、それに関する法的な議論も行われています。アメリカ・カリフォルニア州グレンデール市に設置された記念碑をめぐる訴訟では、最終的にその設置が認められました。
 

January 1, 2001
Letter from Prime Minister Junichiro Koizumi to the former "Comfort Women"
 

December 28, 2015
Joint Press Conference between Japan and Korea of "final and irrevocable" resolution of the "Comfort Women" issue

関連資料

Click on dates to read full text.

January 17, 1992
Prime Minister Kiichi Miyazawa's policy speech 

October 14, 2014
Ministry of Foreign Affairs summary of measures taken on the "Comfort Women"

不正疑惑

2020年5月初旬、92歳の元慰安婦であり、長年にわたり正義を求める活動を続けてきたイ・ヨンスが記者会見を開きました。そこで彼女は、活動家から国会議員となったユン・ミヒャンに対し、資金の不正使用や詐欺、横領などの疑惑を提起しました。ユンは、「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯(通称:正義連)」で長年活動してきた、慰安婦運動の代表的な人物でした。


ユンには、政府補助金の不正受給、元慰安婦支援のために集められた寄付金の私的流用、さらにアルツハイマーを患っていた被害者に寄付をさせたとされる件など、8件の容疑がかけられました。またイ・ヨンスは、多くの元慰安婦が深刻な身体的・精神的苦痛を抱えていたにもかかわらず、十分な休息や配慮がないまま、資金集めのための集会や活動への参加を求められていたとも主張しました。


本来、元慰安婦の治療や生活支援のために使われるべき寄付金が、十分にその目的に沿って活用されていなかった可能性が指摘されています。この問題は、長年続いてきた正義を求める運動の信頼性を揺るがし、結果として日本政府側から「慰安婦問題が政治利用されている」といった主張を強める材料として利用されることにもつながりました。
さらに重要なのは、生存している元慰安婦の支援を担うべき組織が、十分なケアを提供できていなかっただけでなく、結果として被害者たちの深い心の傷をさらに悪化させてしまった可能性がある点です。

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©2026 Project Sonyeo.  Founded and Written by Su Lee 

Japanese Translation by Hyeondo Lee and Ryuju Fugita

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