
キム・ボクトン
김복동
キム・ボクトンは、1926年5月1日、朝鮮・梁山に生まれました。14歳のとき、日本軍によって工場で働くという名目で連行されましたが、実際には中国・広東省にある日本軍の「慰安所」で働くことを強いられました。15歳という若さで、長年にわたる過酷な状況に置かれることになります。
ボクトンの証言によれば、「平日は1日に15人の兵士の相手をさせられ、土日には50人を超えることもあった」といいます。その後8年間にわたり、香港、マレーシア、スマトラ、インドネシア、ビルマなど、アジア各地の「慰安所」を転々とさせられました。22歳で帰国した後も、その経験を公に語ることはできず、母親にだけ打ち明けました。しかし母親は帰国後まもなく心臓発作で亡くなり、ボクトンはその出来事に自らの苦しみが影響したのではないかと感じ続けていました。2013年のインタビューでは、「祖国に戻っても、それは決して本当の解放ではなかった」と語っています。
1992年、66歳のときに元慰安婦として公式に登録し、日本政府に対して公式な謝罪を求めました。その後、彼女は世界中の性暴力被害者のために活動する著名な活動家となります。1993年6月には、オーストリア・ウィーンで開催された世界人権会議において証言を行いました。2012年には、同じく元慰安婦のキル・ウォノクとともに「ナビ基金(Butterfly Fund)」を設立し、世界中の性暴力や戦争被害者への支援活動を開始しました。
基金設立の記者会見で、ボクトンは次のように述べています。
「私は元慰安婦として、日本大使館の前で毎週水曜日に抗議を続け、尊厳と人権の回復を求めています。しかし同時に、今この瞬間も、私たちと同じように戦時性暴力の被害に苦しむ世界中の女性たちの存在を強く感じています。だからこそ、その人たちを支えたいのです。」
彼女はナビ基金に5000万ウォン(およそ 530万〜560万円)を寄付し、その後も自身の貯蓄の多くを寄付し続けました。この基金を通じて、コンゴの被害者や、特にベトナム戦争(1964年〜1973年)において韓国軍兵士による被害を受けた女性たちへの支援も行いました。また、日本から深い被害を受けた経験を持ちながらも、2011年の東日本大震災では、1万5000人以上の犠牲者を出した日本の復興のために募金活動を行いました。
2015年には、韓国と日本の政府間で合意された問題解決策に対し、他の元慰安婦とともに強く反対の意を表明しました。日本政府からの十分な謝罪や責任の認識が欠けているとし、「たとえ100億円を受け取ったとしても受け入れることはできない。これはお金の問題ではない。私たちが自ら望んでそこに行ったかのような主張が続いている。」と批判しました。
この時期も、世界中の活動家や学生、特に日本に住む在日コリアンの若者たちに対して奨学金支援を続けるなど、被害者支援や人権活動に尽力しました。2018年には、がんと闘いながらも抗議活動を続け、2015年の日韓政府間合意に基づいて設立された「和解・癒やし財団」(元慰安婦支援事業を目的として韓国政府が設立した財団)の解散を求めました。彼女は、この合意が被害者本人の意思を十分に反映していないと考えていました。
2019年1月29日、キム・ボクトンはがんのため亡くなりました。最期の時、彼女は「これからも慰安婦のために闘い続け、日本に住むコリアンの学生たちを支え続けてほしい」と周囲に語ったと伝えられています



